11. 危機についての認知と感情
https://gyazo.com/e93513339d59ccc881518fcfe2585034
1. リスク認知
1-1. 危機意識の主観性
リスクの定義に照らして考えれば、原子力発電所のリスクは決して高いとは言えない
原子力発電所で事故が起きた場合、その被害は甚大
一方で、このような事故が起きる確率は極めて低いとされている
しかし、このように説明されたからといって、我々の原子力発電所に対する危機意識は低下しない
実際、一般市民が様々な事象に対して抱く危機意識(リスク認知)は極めて主観的であり、被害の程度やその生起確率といった客観的指標だけで規定されるものではないことが明らかにされている
このような相違は犯罪においてのみ生じるものではない
大学生、女性有権者団体のメンバー、ビジネスマンの団体のメンバー、リスク評価の専門家の4グループ
30種類の科学技術や日用品、日常的な活動についてリスクの評価
その結果、専門家と市民の評価には大きな相違が見られた
https://gyazo.com/819fb96103eb9f299c254b7f36c0a425
このうち、特に顕著な違いが見られたのは原子力発電所に関する評価 専門家は20位、大学生や女性有権者団体はもっともリスクが高いものと位置づけている
スロビックらは統計資料等によって、客観的に年間死亡者数が推定できるものを入手し、その数値とリスク認知の大きさの相関を求めた
専門家グループでは$ r=.92という極めて高い値が認められた
警察官による犯罪リスク認知と同様に、客観指標にかなり近いものだったことがわかる
1-2. リスク認知の2因子モデル
客観指標に基づかない一般市民のリスク認知は何に規定されているか
つまり、一般市民は年間死亡数のような客観指標というよりは、その対象が、どの程度恐ろしく、また未知なものと感じられるかによって、リスクの高低を認識していると考えられる
Solvic(1987)によるリスク認知の2因子モデル(中谷内, 2012より. 各要素は7件法) 制御可能性: そのリスクに曝されているとき、死を免れるように制御できるかどうか
恐ろしさ: 冷静に考えて対処できるリスクか、ひどく恐ろしいと感情的な反応を招くリスクか
世界的な惨事: 世界的な惨事の脅威となるリスクかどうか
致死的帰結: 被害が現実ものとなったとき、その帰結は致死的なものかどうか
平等性: リスクと引き換えになるベネフィットは平等に人々に分配されるかどうか
カタストロフ: 一度に1人が死ぬリスクか、それとも一度に多くの命が奪われるリスクか
将来世代への影響: 将来世代を脅かすものかどうか
削減可能性: そのリスクは簡単に削減できるものなのかどうか
増大か減少か: そのリスクは増大しているのか、減少しているのか
自発性: 人はそのリスク状況に自発的に入っていくのかどうか
観察可能性: それによる被害の発生プロセスは観察できるかどうか
曝されていることの理解: リスクに曝されている人が正確にそのことを理解できるかどうか
影響の晩発性: それによる死は即時的か、後になってからか
新しさ: 新奇なリスクか、それとも古くて馴染みのあるリスクか
科学的理解: 科学的に理解されているリスクか
これらの2因子をもとに様々な危険を2次元上に配置
https://gyazo.com/69c1ab06250bcd80cd014425549367ed
右上の象限に、原子炉事故があることが分かる
スロビックらの研究はアメリカで行われたものだが、人々のリスク認知が2因子から構成されることは、他の国の調査でも確認されている
ただし個別のリスク事象が、2次元図のどこに配置されるかは国によって異なっている
日本人の場合、原子炉事故に対してアメリカ人と同程度に「恐ろしさ」を感じているものの、「未知性」の評価はアメリカ人ほど高くない
一方、遺伝子研究に対しては、アメリカ人は日本人以上に「未知性」を感じているものの、「恐ろしさ」の評価は日本人ほどには高くない
https://gyazo.com/12494a0840ed8f275ffd98611d193719
このような相違は、マス・メディアの報道量や報道の仕方による影響が大きいとされているが、いずれにせよ「恐ろしさ」が高いほど、人々がその対象の規制を強く望むことが明らかにされている 1-3. ヒューリスティック
一般市民のリスク認知に歪み(バイアス)が生じるのは、人間一般の認知能力に限界があることにも一因があると考えられる ふつう一般市民は、個別のリスク事象に対して十分な知識を持っておらず、またそうした事象に対して、自ら幅広く情報を収集して、それらを吟味しようという動機づけも低い
そのような場合、認知的負担の軽いヒューリスティックを用いて、リスクを評価しようとする傾向がある 確実に正答にたどりつける保証はないが、だいたいはうまく物事を解決することができる直感的で解決への道のりが早い認知方略のことあ
実例を数多く思い出せる事象ほど、よく起きていると判断する
想起される内容が直接経験に基づくものである場合は、それほど大きな間違いを生じさせない
しかし一般市民がリスクに関する情報に触れるのは、殆どの場合、マス・メディアを通じて
現実にはニュース・バリューが高い事件や事故が優先的に報道されている
その結果として、マスメディアが報道する世界は我々の日常とはかけ離れたものになっている
オレゴン州とマサチューセッツ州において、死に至る様々な事象について以下を調べた
(1) 新聞の報道頻度
(2) 住民のリスク認知(主観的な発生頻度)
(3) 現実の発生頻度
2つの州の新聞の報道頻度は極めて類似していたが、それは現実の事象の発生頻度をまったく反映していなかった
しかし、住民のリスク認知は、新聞の報道頻度と強く関係していた'
マスメディアにより繰り返し報道される事象は、利用可能性ヒューリスティックによって発生頻度が高く見積もられると考えられる
居住地域の治安評価
直接経験に根ざした利用可能性ヒューリスティックが使用される
1年前よりも治安が「悪くなった」と回答する者はわずかになる
日本全体の治安評価
マスメディアの報道に基づく利用可能性ヒューリスティックが使用されやすい
1年前よりも治安が「悪くなった」と回答した者が多く見られていた
ただし、マス・メディアの報道と利用可能性ヒューリスティックにもとづくリスク認知との間にある因果関係は、一方向的なものではない
一般市民が、ある事象に対して高いリスクを認知すると、その事象は高いニュース・バリューを持つものとして、マスメディアに取り上げられやすくなる
リスク認知が報道を促し、さらにリスク認知が上昇するという自己増殖的な連鎖が想定される
前もって与えられた値や、当初、直感的に推測された値を手がかりにしてまず判断を行い、その後、最終的な判断を下すために調整を行うという認知方略のこと
最初に設定された値は、係留点、すなわち船の錨(アンカー)としての役割を果たすため、多くの場合、最終判断は当初の値の近くに留まることが知られている
当初の値があまり根拠のないものであっり、拠り所にすべき値ではなかったりした場合は、その後の調整不足により、誤った判断が導かれることになる
東日本大震災の巨大な津波の連日の報道により、我々の津波に対するリスク認知が高まったことは間違いない
しかし、こうした報道は、人々が考える津波の高さを高い一に係留し、結果として、一般市民が危険だとみなしたり、避難すべきだと考えたりする津波の高さが上昇してしまった可能性が指摘されている
1年前と比較し「3m未満の津波でも危険」70.8%から45.7%に減少
1年前と比較し「3m未満で避難を開始する」60.9%から38.2%に減少
1-4. フレーミング効果
情報提示の方法でも、我々のリスク認知は左右される
「600人を死に至らしめると予想される特殊なアジアの病気が突発的に発生した」
対策
A「200人が確実に助かる」
B「600人が助かる確率は3分の1で、誰も助からない確率は3分の2」
C「400人が確実に死亡する」
D「誰も死なない確率は3分の1であり、600人が死亡する確率は3分の2」
A: 72%, B: 28%
C: 22%, D:77%
4つの対策はすべて同じこと
にもかかわらず、選考パターンの逆転が起きていた
ある事象を心的に構成する枠組みが変わることで、その対象の主観的な価値が変動すること
A,Bは「どれだけの人が助かるか」という利得に焦点を当てた表現 利得については確実性を求め、損失を回避する傾向が見られる
C, D「どれだけの人が死亡するか」という損失に焦点を当てた表現 損失については確実性を嫌い、リスクを追求する傾向が見られる
1-5. 具体的な事例や頻度の影響
統計的な情報よりも、具体的な事例を見せたほうが、リスク認知が高くなることも明らかにされている
この場合、興味深いことに、個人が同定できる資料に統計情報を追加すると、統計情報のみを提示した場合と同レベルにまで寄附金額が低下する
統計情報を出す場合にも、確率より頻度に関する情報の方がリスク認知を左右しやすいことも示されている その際、別の専門家のアセスメント評価として、暴力行為を犯すリスクを相対的な頻度で伝える場合と、統計的な確率としてリスクを伝える場合を用意した
「この人物と同じような人物は100人中20人が、退院後に暴力行為に手を染める」
彼の退院を41%が拒否した
「暴力行為を犯す確率は20%だと推定されている」
退院を拒否したのは21%
後続の研究では、再犯の確率を10%や20%と示した場合には、患者に対して、どちらかと言えば温和なイメージが持たれたのに対し、それを相対的な頻度で示した場合には、恐ろしいイメージが作り出されたことが明らかにされている
2. 感情の役割
2-1. 感情ヒューリスティック
一般にリスクが高い技術は、それに見合うだけのベネフィット(有用性)があるからこそ利用されているのだと考えられる
したがって、合理的に考えるなら、我々の身の回りにある科学技術には、リスクが高いほど、ベネフィットが高いという正の相関関係が仮定できるはず
ところが一般市民の認識を調べると、このような予測に反して、ベネフィットが高い対象はリスクが低く、リスクが高い対象はベネフィットが低いという、実態とは異なる負の相関関係がしばしば見られる
好意的な感情→低リスク高ベネフィット
否定的な感情→高リスク低ベネフィット
フィヌケーンらは、感情は分析的な思考に先立って素早く生起するために、一旦、感情が生起すると、その感情に沿ったリスクやベネフィットの判断がなされるのだと考えた 彼らは、様々な科学技術について、リスクもしくはベネフィットを高く(低く)感じさせるような情報を提供すると、それに応じた感情が生起し、後続の判断に影響することを示している
https://gyazo.com/167ce07e3fcdd1c77f48e089f7eea447
例えば、原子力発電のベネフィットの高さを論じる情報に触れさせると、原子力発電に対して全般的にポジティブな感情が生じ、その結果、リスクは小さいと見なされる
反対に原子力発電のリスクは大きいという情報に触れさせると、原子力発電に対してネガティブな感情が生じ、ベネフィットまで低いとみなされるようになる
このことは、人のリスク判断は、それについて何を考えるか(認知)だけではなく、どのように感じるのか(感情)によっても左右されるのだということを示している 2-2. 二重過程モデル
フィヌケーンらの別の研究では、時間的な圧力を高め、熟考する機会を奪うと、リスクとベネフィットとの間に見られる負の相関はますます強くなることが明らかにされている
すなわち、そこで行われているリスク判断には、感情ヒューリスティックという名にふさわしい、直感的な判断方略が用いられていることがわかる
反対に、時間がふんだんに与えられ、またそこで扱っているリスクが自分自身にも極めて関係が深いものだった場合
例えば自分が住む街に原子力発電所が建設される計画があり、それに関する情報が数多く提供されれば、時間をかけてその情報が数多く提供されれば、時間をかけてその情報を吟味してみようとするのではないだろうか
より労力がかかり、入念で合理的な推論に基礎を置く過程
我々が外部から得た情報をもとに、ある事象に関する態度を決定する際には、2つのルートがあると仮定している
入手可能な情報はできるだけ丹念に吟味され(精緻な情報処理が行われ)、その結果をもとに態度が決定されていく
その情報を吟味しようという「動機づけ」があり、かつその情報を処理するだけの「能力」がある場合に限定される
周辺ルートではしばしば情報の本質的な内容ではなく、周辺的な手がかりが大きな影響を与える
そのため、関心が低かったり、知識が乏しかったりするリスク事象に対しては、直感的な感情反応が強い影響を及ぼしたり、ヒューリスティックが用いた判断がなされやすくなると考えられる
他方、専門家は同じ事象に対して「動機づけ」と「能力」を兼ね備えていることが多いため、中心ルートを介した精緻な判断が行われやすい
2-3. 感情が与える影響
「恐ろしさ」因子に含まれている要素の多くは、感情ヒューリスティックによってもたらされている可能性も指摘されている
ある事象のリスクが高いと認知されるから、恐れや不安といったネガティブな感情が生じるのではなく、まず感情的な反応が先行し、それがリスクに関する様々な認知を規定するということ 同様にして、ここまでに示した他のヒューリスティックや認知バイアスも、最近では以前にも増して感情との関わりのなかで論じられるようになってきている
例えば、感情を喚起するものは記憶により定着しやすい 利用可能性ヒューリスティックが用いられる際に思い浮かべられる実例は、多くの場合、強い感情が付随した事象である
また統計情報よりも、具体的な数字や事例の方がリスク認知に影響するのも、それらが感情を喚起しやすいからともいえるだろう
一方で、無味乾燥な統計情報は、感情を沈静化する効果を持つことも指摘されている
感情が我々のリスク認知に強い影響を与えるのであれば、マスメディアの報道量だけでなく、報道される内容、特にその感情的なトーンが、我々のリスク認知を大きく左右するかもしれない
したがって、こうした感情的なコメントが、当時の一般市民のリスク認知を醸成した可能性も考えられる
一口に感情と言っても、様々な種類があり、感情の種類によってもリスク判断への影響は異なるようである
恐れは不確かさと状況的なコントロールの評価から生じるものであるのに対し、怒りは確かさと人的なコントロールの評価から生じるからではないかと考えられている
3. リスク・コミュニケーション
3-1. 一般市民と専門家の意見が対立するとき
一般市民と専門家の間で、リスクに関する意見が対立した場合、いずれの意見が優先されるべきか
仮に一般市民と専門家のリスク認知の違いは、一般市民の科学的知識、あるいは科学的思考力の欠如によるものだととらえるのであれば、専門家の意見こそが優先されるべき
そして専門家は、一般市民に対して"正しい"知識を提供したり、"正しい"考え方を教えたりするなどして、啓蒙していく必要がある
しかしそのような試みは、単にうまくいかないばかりか、一般市民の反発を招き、両者の間にしばしば対立状態を生じさせることになった
それは、一般市民のリスク認知は、知識や思考力の欠如に由来する不合理な認知として片付けられるほど、単純なものではないから
3-2. 専門家の認知バイアス
専門家であれば、常に正しい判断ができるというのも間違い
すでに経験豊富な臨床家であっても、情報提示の仕方によって判断が左右されるという研究を紹介した
この研究に限らず、専門家における認知バイアスを報告する研究は枚挙にいとまがない 認知バイアスや感情の影響は人げ日販に広く見られるものであり、専門家であっても、こうしたバイアスから常に逃れられるわけではないことを示している
科学技術が発展するスピードがますます速くなり、社会が複雑化していくなか、専門家が自らの専門性を発揮できる場はかなり限定的になってきている
現代のような専門性が複雑化、細分化した社会において、ありとあらゆることに通じた専門家というのはもはや存在しないと言える
そのため、仮に自らが属するごく限られた専門分野において正しいリスク認知ができていたとしても、それが自身の専門性を超えた問題にまで通用する保証はまったくない
3-3. リスク・コミュニケーション
専門家が一般市民に対して一方的に行うものであってはならない
そのようなコミュニケーションのとり方をする限り、有効なコミュニケーションは成立しない
「リスクに関わる個人、機関、集団間での情報や意見のやりとりの相互作用過程」
一般市民と専門家との意見対立を解消するには、相互の意見を伝達しあう相互作用過程が必要と言える
そのためには、専門家も一般市民のリスク認知を理解すべきだろうし、一般市民も自らのリスク認知について、自覚的になる必要があるだろう
リスク認知研究の先駆者であるスロビックは、彼等の研究チームが客観的なリスクだけではなく、主観的なリスク(リスク認知)を研究することの目的として、次の3つを挙げている
リスクに関する意見を引き出す方法を改善すること
リスク事象に対する一般市民の反応を理解し、予測する基盤を提供すること
一般市民、技術的な専門家、政策立案者との間のリスクに関するコミュニケーションを改善すること
なお、リスクコミュニケーションには、コミュニケーションの内容だけでなく、コミュニケーションを行う者への信頼も大きな役割を果たすことがわかっている